2009年8月21日金曜日

日本人はなぜ歴史的建築を安易に破棄するのか。

      辰野金吾 
 
 日本銀行本店(1896年、明治29年竣工/辰野金吾設計)
 
日本銀行京都支店(1906年、明治39年、辰野金吾設計/現 京都平安博物
 
京都中央郵便局(1902年、明治35年、逓信省 三橋四郎設計/現 中京郵便局)
 
横浜正金銀行本店(1904年、明治37年、妻木頼黄の設計/現神奈川県立歴史博物館)

 
東宮御所、後に赤坂離宮(1909年、明治42年、片山東熊計、/現赤坂迎賓館)

1)明治の洋風様式建築を建設した人々
岩倉具視使節団が不平等条約改正交渉のためにヨーロッパに行ったのは明治維新後の1871年であった。初めて自分の目で西洋諸国と日本の文明の格差に驚き、文明開化と富国強兵こそ日本の緊急の課題であることを悟った。帰国後に西洋並の体制を整備するためになりふり構わずに西洋化に邁進することになった。多くの外国からの技術者を招聘して西洋の技術を学び、西洋並の体裁を実現し、外国からの侮りを受けないように最大の努力を傾けた。1883年(明治16年)には鹿鳴館を完成させ、条約改正交渉における非文明国の印象を与えない為に、ここに外国の貴賓を招き、西洋並の上流社会を育成する社交場とした。ヨーロッパからの多くのお雇い技術者が土木、建築分野にも招聘されたが、鹿鳴館を設計したのは1877年(明治10年)に若干25歳で英国から来日し、工部大学校(現・東大工学部建築学科)造家学教師および工部省営繕局顧問となったのはジョサイヤ・コンドルであった。この時期にはまだヨーロッパの建築技術も建築設計方法も体得して実践できる人間は存在していなかった。工部省工学寮に辰野金吾が日本人第一回生として19歳で入学したのは明治6年であった。卒業するのは明治12年(25歳)、彼は翌年の明治13年に英国に留学し、帰国したのは3年後の明治16年(28歳)であった。翌年の明治17年に辰野金吾はジョサイヤ・コンドルの後任として日本人として最初の工部大学校の教授となり、この時30歳であった。洋風建築を日本人自身の手で設計し、構築する時代が始まるのはこの時からである。同期生の曽根辰蔵(海軍省)、片山東熊(宮内省)、佐立七次郎(海軍省、逓信省)たちも官界において多くの名建築を残した。辰野は伊東忠太、長野宇平次、武田五一、中條精一郎、塚本靖、野口孫一、大沢三之助、関野貞ら大正、昭和に活躍する多くの人材を育て、日本の建築界の基礎を築いた。1898年(明治31年)には44歳にして帝国大学工科大学学長となり、1902年(明治35年)に帝国大学工科大学を48歳で辞職した。退職後翌年1903年(明治36年)には葛西萬治と辰野葛西事務所を東京に開設し、1919年(大正8年)に65歳で死去するまで数多くの建築を設計し、東京駅はその代表作品となった。辰野金吾を代表とする明治の建築家達が残したものは洋風様式建築として日本独自の建築とはいえないという批判から、現代に至るまでのモダニズム建築が生まれてきた。明治、大正の時代に生まれた建築も大正12年(1923年)の関東大震災によって多くは失われたが、関東以外の地では多くの建築が残された。しかし、昭和20年(1945年)の広島、長崎への原爆投下、全国の市街地の無差別大空襲によって残された貴重な明治建築の多くが灰燼となってしまった。それでも未だ残されている明治大正建築は存在する。(上記写真)
2)昭和のモダニズム建築の存亡
今話題になっているのは大正、昭和初期以降の数少ないモダニズム建築の破壊である。最近国会で話題になった東京中央郵便局をはじめ大阪中央郵便局等の戦前に完成した近代建築が、郵政民営化になった途端に重要文化財としての価値を無視しても経済価値を優先する経営者の判断により破壊されることが国民の前に明らかにされたことだ。戦後の高度成長時代から日本国民の価値観となった文化的、歴史的価値より経済的価値はなによりも優先するという価値観の変化こそ現在の歴史的な建造物を破壊し続ける原動力となったのではないだろうか。明治、大正、昭和を破壊し続けた戦争という妖怪が未だにこの平成時代に別の形で生き続けているともいえる。日本人には蓄積継承したものを敬愛し、先駆者を尊敬し、その価値を認めながら新たな時代を作り続けるという奈良時代から持ち続けた文化に対する持続力、忍耐力を最早もてない民族、国民になってしまったということか。自然環境における生物の多様性が叫ばれているのは、人工的な都市環境においては歴史的な多様性が都市環境を豊かにするという論理につながるのではないか。建設後100年にも満たない歴史的な建築が、惜しげもなく失われていくことに危機感をもつ市民の登場を期待したい。




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