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2012年9月13日木曜日

東海地区郵政建築OB会に参加して。

東海地区郵政建築OB会に参加して。

平成24年(2012年)9月8日(土)に名古屋千種にある「名古屋メルパルク」にて東海地区のOB会に6〜7年ぶりに参加した。昭和59年〜60年に東海郵政局建築部長として勤務して以来26年の歳月が過ぎたが、平成4年には退官したのでそのときからは20年
が過ぎ、時の過ぎるのは早い。ひさしぶりに再会した方も多いがお会いできなかったかたも多い。この20年の間に郵政省は郵政事業庁から郵政公社となり、2007年には民営化され、日本郵政株式会社と分社化により4社体制となった。2010年には旧建築部は
不動産部門施設部として発足した。かつての地方郵政局建築部10カ所は「施設センター
7カ所」となった。東海郵政局建築部は現在では「中部施設センター」である。
民営化以降の施設部の変化は大きく、特に東京中央局、大阪中央局の再開発決定については戦前の逓信省が残した近代建築の輝かしい成果として、これを文化財に匹敵する建築文化遺産として残す事を多くの歴史学者、地元の有識者からの保存陳情が起こった。東京中央局にあっては国会での議論となり、鳩山邦夫総務大臣の提案がうけいれられて、保存範囲の拡大という成果を得た。大阪中央局も大型の再開発計画が浮上したが、その後の事業の実現性の検証により中断となった。ここで大阪中央局の保存問題に猶予期間が生まれたと安心した関係者もいたかもしれないが、その猶予も待たずに解体工事が発注された。
新たな計画も発表されていないにも関わらずなぜ解体を急いだのであろうか。明らかに保存運動が盛り上がらない内に話題の種を抹殺してしまうという経営判断であろう。
企業の社会的責任という事が話題になっている現在、その責任の中に歴史的文化的遺産存続への企業努力が要求されるのは当然である。企業は直接の企業目的意外には眼中にないと言う程この社会の文化的側面に無関係でビジネスを行っているのだろうか。企業の側からの目覚めが必要な時代であろう。しかし、私見によればこの問題を企業の自主的判断だけに追わせるのは無理な事と思う。文化財保護法が近代建築保存に対して無関心なるが上の法制上の不備による結果が招いている現象であると考える。新たな法制化なくして今後の歴史的建築遺産の保存はありえないと考える。
郵政OB会の閉会後に飛田センター長とかつて設計課長経験のある観音さんと「名古屋中央局」の見学にいった。既に窓口以外は使用されていない局舎であり、近々新たな開発計画のもとに再開発されると聞いている。戦後60年の節目に民営化された以降、郵政事業の歴史的シンボルであった「東京中央郵便局、大阪中央郵便局、名古屋中央郵便局等」の大型の近代建築が取り壊され、姿を変えていく事には大きな喪失感を抱いてしまう。百年に満たない建築がスクラップされていく日本の建築の有り様には建築文化に対する誇りや自身が持てない国民性の現れであろうか。いつも直近の新しさには目を奪われるが歴史的時間を経て生き残っているものへの愛惜観を持てないのはなぜだろうか。そのような国民が
ヨーロッパの古い建築や街並みを高い旅費を払って見に行くのはなぜだろうか。逆に世界の他国の人たちが日本に観光旅行する動機はなだろうか。日本固有の文化を保持している
京都、奈良、飛騨高山、日光、東北の山村、自然の豊かさそして浅草、千駄木に代表される大都市における過去と現在の渾然とした都市文化現象ではなかろうか。
日本人は飛鳥、奈良、平安、鎌倉、江戸の各時代が残したものへの誇りと同じく、もっと明治以降の近代遺産に対しても自身と誇りを持ってほしいと思う。
近年の地球温暖化への警告、地球資源の再利用、自然エネルギーの再生利用が叫ばれている今日では膨大な資源とエネルギーと労力によって生まれ、未だ十分に活用期間が残されている建築物をスクラップにしてしまうことへの反省が無ければならないと思う。
日本人が長い歴史の中で培ってきた、自然への畏敬、資源への感謝、労働成果への尊敬
こそが「もったいない精神」の底に流れている姿であり、世界の人たちから目標とされる心構えであろうと思う。

「名古屋中央郵便局の現状と名古屋駅前周辺」











2012年9月7日金曜日

大阪中央郵便局解体直前の姿の報告。

黒川 暢一郎 様

6月7日に十数年振りに大阪での「たくみ会」に参加しました。
私の勤務した昭和50年から52年の間にともに仕事をした懐かしい人たちにお会いしました。しかしこれまでの30数年の間に設計課にいた人が3人(熨斗君、山田君、向井君)も亡くなりました。共に働いた仲間たちとの思い出だけは忘れることはできません。
この度は大阪中央局の最後となるかもしれない姿を眼に刻んでおきたいとの願いもあってOB会に参加しました。
寺崎部長時代の管財課長であった上田文男様とお話したところ、中央局に大変な思い入れがあり中央局の写真を数多く撮影した思いでもあり、局舎解体を目前にしてこれまでの写真を使ってDVDを編集・制作したとのことでした。
数日後にそのDVDを送って頂き、上田さんの中央局への熱い思いに感激しました。
上田さんのみならず多くの郵政人、市民も愛惜の念を抱いていることと思います。
翌日の8日には東京でお会いした「大坂中央郵便局を守る会」の長山会長にお会いしようと電話したところ保存運動に関して弁護士との打ち合わせがあり面会できませんでした。後からの電話では工事差止訴訟等の可能性について検討したとのことでした。長山さんは大変潔癖な方で、政治家への依頼はしたくないとの見解でした。
午前中は観音さんと大阪駅前の変化を20年ぶりに実感しました。駅前広場にはJRの駅ビルが突出して建てられ、駅前広場が狭くなっていました。阪急百貨店は旧外装デザインを復元しながら背後に高層ビルの建設工事がほぼ完成間近でした。
建築が都市の記憶装置としての意味を持つと考える私としてはこのような再開発の方法も可能だと思いました。
中央局は外周に仮囲いの工事中のため、在りし日の全容を偲ぶことはできませんでしたが、周囲を見て回って改めてその大きさ、デザインの緻密さに感激しました。東京中央局と比べて外壁が暗いのが難点ですが、かえって威厳のある姿になっていると感じました。これを再開発するならば私ならばどうするかと以前から考えていました。既に郵便局としての機能はなくなっているのでこのデザイン・空間を生かしながらいかなる用途を盛り込むかによって全体像が決まります。このような課題に挑戦することは建築家として最も力量を問われると共に、やりがいのある仕事です。今の日本郵政の施設部は自らの力でこの課題に挑戦するべきでしょう。
一番安易な道を選んでいてはかえって彼らの存在感が薄れるばかりです。
このような安易な解体新築の手法だけしか思いつかない貧困な建築集団にしてしまったことに郵政建築人として責任を感じます。
これからも多くの近代建築の遺産を保有している日本郵政建築はもっと過去・現在・未来を包含した広い視野の集団として活躍してほしいと願っています。OBとしての役割も忘れてはならないと思っています。
「スコラ建築倶楽部」でも現代都市における建築のあり方について研究し、議論していきたいと考えています。
多くの現役、OBの皆様の参加を期待しています。
大坂駅前広場周辺の写真を貼付しますのでご覧ください。

2012.6.21


野崎英彦




解体用仮囲工事
広場側外観
大阪駅前から中央局展望
阪急再開発完成直前
完成後の全体イメージ









2012年9月3日月曜日

大阪中央郵便局の解体完了の残念無念について。

大阪中央郵便局はついに解体された。
何のためにこのような無謀な行為が許されたのか。
日本文化の歴史の中でも最も非道な事件として語り継がれるであろう。
人の誕生は親族の喜びであり、これを祝す。
人の死はかけがえの無い人との永久の別れとして、これを深く悲しみ弔う。
建築の誕生も多くの関係者はこれを喜び、これを祝す。
建築の死もまた多くの人はこれを悲しみ、愛惜の情に苦しむ。
大阪中央郵便局は多くの市民、学者、技術者に惜しまれながら、
公衆の面前で悶え苦しみながら死に追いやられてしまった。
そんな姿を日々見ながらも如何ともし難いこの悲しみ苦しみに耐え、
弔うこともなくこの昭和の名建築は逝ってしまった。
(「大阪中央郵便局を守る会」のHPより写真を転載させて頂きました。
心ある方はぜひHPをご覧になってください。)
大阪中央郵便局外観


2012.8.2撮影

2012.8.8撮影

2012.8.14撮影

2012.8.21撮影

2012.8.24撮影

2012.8.31撮影

2009年8月23日日曜日

歴史的建築を残す意味について

大阪中央郵便局
大阪中央郵便局(1939年、昭和14年、逓信省営繕課、吉田鉄郎設計)
■歴史的建築を残す意味について
1)日本の建築の歴史性
歴史的建築とは何を示すのかをまず問わねばならない。日本人の一般的な歴史観からすれば、江戸末期までは鎖国政策によって、純粋な日本の固有文化として他国からの影響を殆ど受けずに歴史が形成されてきたという認識が存在している。そのゆえにこの時代の日本の文化財は無条件に永久に存続していかなければならないと考えている。しかし、学問的、考古学的な研究成果からは大和朝廷という国家組織そのものが、奈良時代初期までの中国大陸に置ける唐文化との交流をとおして多くの文化を導入して形成されたものである。朝鮮半島における三韓時代には唐と新羅の連合軍と百済との戦いに巻き込まれて、百済を応援して派兵した結果、白村江の戦いに敗れ百済が滅亡した為に、多くの百済からの亡命者を大和朝廷は受け入れた。その後は高句麗が滅亡し、朝鮮半島は新羅によって統一されることになった。其の結果、百済人、高句麗人という高度な文化と技術をもった渡来人により、大和朝廷の骨格が短時間に日本に定着、実現することができた。この時期こそ日本の国際交流の始まりとなり、遣唐使を大陸に派遣して唐から国家の政治、行政等の制度と都市計画や大陸の先端技術を導入した画期的な時代変革の始まりとなった。日本の建造物文化財が明日香、奈良、平安、室町、鎌倉時代までの物に集中している理由である。しかし、その多くは大陸文化の模倣と技術導入によるものであって、日本人が独自の美意識によって洗練させたにしても日本の独占的な著作権を主張する事は憚るのであるが、日本における歴史的建築物はこの時代に生み出されたものであり、重要文化財として国民の文化遺産となっている。
2)鎖国政策による独自文化の形成と文明の停滞
江戸時代には幕府の統治政策により、橋の建設から城の建設に至るまでが禁止された為に国土の文明的なストックは何も蓄積されずに明治維新を迎えたことになる。鎖国政策により、文明的には停滞することになったが、却って独自の文化を醸成することにはなった。江戸時代の250年間の鎖国により、建築文化面でみると、支配階級である幕府、大名は明日香、奈良時代に大陸から獲得した遺産を維持する以上の発展はなかった。替わりに新興の商人階級が江戸、大阪、京都のような消費経済の発展した都市の中で町屋という独自な居住区を造り、町屋文化を形成した。地方の富農豪族は地方性を発揮した民家建築をつくりだすことになった。
3)奈良時代を上回る明治以降の西洋文化、文明の受容
明治維新後の西洋の文化、文明の模倣、技術導入は明日香、奈良時代を上回る勢いとなった。明日香、奈良時代から1000年の時間をかけて日本化した時間から見ると、明治以来の洋化の歴史は現在までに130年しか経ていないのである。この130年間の洋風文明はあまりにも日本化になじむ時間のないままに太平洋戦争に敗れ、無条件降伏した。全国を焦土と化した戦災によってこの時代の多くの歴史的建築物が損失したが、それでも戦災を受けなかった地方にはまだ多くの歴史的建築が残されている。その後の高度経済成長による地価高騰の結果、残された歴史的建築も消えていく運命となった。貴重な明治の歴史的建築を少しでも残すために生まれたのが明治村であった。例えどんな歴史経過によってであれ、他国の文明、文化を模倣し、洗練させ、定着させたものはその国の国民の成果であり、歴史の証人であり、記憶であり、生きてきた足跡であって、それらを礎として、自らを省みる鏡として、時間をかけて未来に向かって生きていくのであって、その生き証人こそ歴史的建築であると考える。
4)大正・昭和時代の建築の歴史的意味
今話題になっている東京中央郵便局、大阪中央郵便局は、竣工以来まだ100年に満たない昭和初期の歴史的建築である。昭和初期における日本の建築家が日本にもその文化的伝統に相応しい誇りある近代建築を創造したいと格闘して生みだした歴史的建築である。設計者である建築家吉田鉄郎にとってはこの建築が最終到達点に達した作品とは思ってはいなかったであろう。日本の近代建築に対して様々に悩んだ末の通過点に違いない。だからこそ建築家が創造力の極点において日本の国民に提示しようとした建築家の心の中を理解したいと思う。日本人の多くが、明治の模倣に近い洋風様式建築ならば保存の価値はあると考えるのは、ヨーロッパの様式建築の美しさを理解できるからであるが、昭和初期においてはヨーロッパにおいても最早新たな時代に相応しい近代建築を求める社会が到来していた。日本においても建築家が近代社会に相応しい建築を創造しようとしてきた結果、建設されたのが東京と大阪の中央郵便局であった。明治建築としての東京駅舎の復元工事が行われている目の前に、昭和の歴史的建築が存在し続けることこそ、江戸から東京への歴史的重層性や文化の多様性に満ちた味わいの深い東京の玄関となるのではないか。その意味では丸の内地区は日本の象徴的歴史を刻印する歴史的特別地区にしてこそ、世界の人々を引きつけ、世界に尊敬される都市となるであろう。江戸城の歴史を保存し続けている皇居を目前とする丸の内地区は、歴史的特別区にこそ相応しい地区であることを理解する必要があるのではないか。


2009年8月21日金曜日

日本人はなぜ歴史的建築を安易に破棄するのか。

      辰野金吾 
 
 日本銀行本店(1896年、明治29年竣工/辰野金吾設計)
 
日本銀行京都支店(1906年、明治39年、辰野金吾設計/現 京都平安博物館)
 
京都中央郵便局(1902年、明治35年、逓信省 三橋四郎設計/現 中京郵便局)
 
横浜正金銀行本店(1904年、明治37年、妻木頼黄の設計/現神奈川県立歴史博物館)

 
東宮御所、後に赤坂離宮(1909年、明治42年、片山東熊設計、/現赤坂迎賓館)

1)明治の洋風様式建築を建設した人々
岩倉具視使節団が不平等条約改正交渉のためにヨーロッパに行ったのは明治維新後の1871年であった。初めて自分の目で西洋諸国と日本の文明の格差に驚き、文明開化と富国強兵こそ日本の緊急の課題であることを悟った。帰国後に西洋並の体制を整備するためになりふり構わずに西洋化に邁進することになった。多くの外国からの技術者を招聘して西洋の技術を学び、西洋並の体裁を実現し、外国からの侮りを受けないように最大の努力を傾けた。1883年(明治16年)には鹿鳴館を完成させ、条約改正交渉における非文明国の印象を与えない為に、ここに外国の貴賓を招き、西洋並の上流社会を育成する社交場とした。ヨーロッパからの多くのお雇い技術者が土木、建築分野にも招聘されたが、鹿鳴館を設計したのは1877年(明治10年)に若干25歳で英国から来日し、工部大学校(現・東大工学部建築学科)造家学教師および工部省営繕局顧問となったのはジョサイヤ・コンドルであった。この時期にはまだヨーロッパの建築技術も建築設計方法も体得して実践できる人間は存在していなかった。工部省工学寮に辰野金吾が日本人第一回生として19歳で入学したのは明治6年であった。卒業するのは明治12年(25歳)、彼は翌年の明治13年に英国に留学し、帰国したのは3年後の明治16年(28歳)であった。翌年の明治17年に辰野金吾はジョサイヤ・コンドルの後任として日本人として最初の工部大学校の教授となり、この時30歳であった。洋風建築を日本人自身の手で設計し、構築する時代が始まるのはこの時からである。同期生の曽根辰蔵(海軍省)、片山東熊(宮内省)、佐立七次郎(海軍省、逓信省)たちも官界において多くの名建築を残した。辰野は伊東忠太、長野宇平次、武田五一、中條精一郎、塚本靖、野口孫一、大沢三之助、関野貞ら大正、昭和に活躍する多くの人材を育て、日本の建築界の基礎を築いた。1898年(明治31年)には44歳にして帝国大学工科大学学長となり、1902年(明治35年)に帝国大学工科大学を48歳で辞職した。退職後翌年1903年(明治36年)には葛西萬治と辰野葛西事務所を東京に開設し、1919年(大正8年)に65歳で死去するまで数多くの建築を設計し、東京駅はその代表作品となった。辰野金吾を代表とする明治の建築家達が残したものは洋風様式建築として日本独自の建築とはいえないという批判から、現代に至るまでのモダニズム建築が生まれてきた。明治、大正の時代に生まれた建築も大正12年(1923年)の関東大震災によって多くは失われたが、関東以外の地では多くの建築が残された。しかし、昭和20年(1945年)の広島、長崎への原爆投下、全国の市街地の無差別大空襲によって残された貴重な明治建築の多くが灰燼となってしまった。それでも未だ残されている明治大正建築は存在する。(上記写真)
2)昭和のモダニズム建築の存亡
今話題になっているのは大正、昭和初期以降の数少ないモダニズム建築の破壊である。最近国会で話題になった東京中央郵便局をはじめ大阪中央郵便局等の戦前に完成した近代建築が、郵政民営化になった途端に重要文化財としての価値を無視しても経済価値を優先する経営者の判断により破壊されることが国民の前に明らかにされたことだ。戦後の高度成長時代から日本国民の価値観となった文化的、歴史的価値より経済的価値はなによりも優先するという価値観の変化こそ現在の歴史的な建造物を破壊し続ける原動力となったのではないだろうか。明治、大正、昭和を破壊し続けた戦争という妖怪が未だにこの平成時代に別の形で生き続けているともいえる。日本人には蓄積継承したものを敬愛し、先駆者を尊敬し、その価値を認めながら新たな時代を作り続けるという奈良時代から持ち続けた文化に対する持続力、忍耐力を最早もてない民族、国民になってしまったということか。自然環境における生物の多様性が叫ばれているのは、人工的な都市環境においては歴史的な多様性が都市環境を豊かにするという論理につながるのではないか。建設後100年にも満たない歴史的な建築が、惜しげもなく失われていくことに危機感をもつ市民の登場を期待したい。




2009年6月17日水曜日

建築は誰のものか。東京駅舎復元工事によせて。









前回の投稿で取り上げた東京中央郵便局の解体工事の横では東京駅丸の内駅舎の解体復元工事が続行中である。駅舎が竣工したのは大正3年(1914年)、設計は辰野金吾(辰野葛西事務所)である。辰野は辰野ルネッサンス様式と称された洋風建築を明治大正を通じて多くの建築を残した。設計に着手したのは明治36年(1903年)、基礎工事に着手したのは明治41年(1908年)であるから、設計期間5年、工事期間6年という大工事であった。現在我々が見ている駅舎は第二次大戦で戦災を受けて屋根が焼失し、火災の熱でレンガ造鉄骨補強の構造体は3階部分において著しく損傷したため、3階を撤去して2階建てとして急遽補修したものである。多くの人は当初から駅舎は2階建てと思い込んでいると思われるが、完成当初は3階建てでり、ドーム屋根も現在のような直線型ではなく、ほうずき型の曲線形のドーム屋根であった。当時の完成写真や色付きの立面図をみるとその壮大さに驚く。戦後10年以内に応急処理の駅舎を本格的に改築する計画もあったが、60年以上の経過を経て今回2007年に丸の内駅舎保存・復元工事がされることになった。丸の内側のみならず、八重洲側の再開発をも含めた東京駅舎周辺開発が現在進行中である。丸の内駅舎がここにたどり着く前には、中央口のみを残して残りは解体し、ホテルを含む超高層建築計画が検討された時期もあった。その後バブル経済の崩壊もあり、古い建物を大事に継承していく社会的機運も生まれて、保存、復元の決定に決まったことを市民、有識者は心から喜んでいることと思われます。
その反面。隣りの東京中央郵便局は昭和初期に完成した世界の建築家、有識者も称賛する昭和の近代的な名建築と評価されてきたにも拘わらず、国民的な話題になる前に解体される事が決定してしまった。現地に立つと丸の内駅舎の工事用仮囲いには、駅舎の歴史的経過と将来像について懇切丁寧な解説看板が数十メートルに渡って掲示されているが、東京中央郵便局の方はなんの説明もなく、完全目隠し囲いによって人の目に触れない内に解体してしまおうという意図が歴然としている。長い歴史を経て社会の中に生き続けた建築は官庁のものであれ、民間のもであれ国民の共感する公的な存在であることを我々はもっと主張しなければ成らないと思う。