2012年9月25日火曜日

バーナード・リーチ展(横浜高島屋)

横浜高島屋にて「バーナード・リーチ展」が開催された。1934年に同じ高島屋にて「バーナード・リーチ展」が開かれてより70年ぶりの展覧会であった。今後自分が生きている間には開催されないであろうとの思いで、9月24日(土)に雨の中を足を運んだ。雨天にも関わらず多くの人が見に来ていた。
バーナード・リーチは1887年(明治20年)に英国でうまれたが、誕生とともに母と死別し、日本に居住していた母方の祖父母にひきとられ、京都、彦根で育った。その後、父の仕事で香港、シンガポールで過ごし、10歳のときに本国にもどった。
16歳で美術学校に入学したが、父の病気、死去により1年で退学。20歳でロンドン美術学校に入学し、エッチングを学ぶ。ここで高村光太郎を知る。22歳の時に高村光太郎に伴って日本へ渡航する。日本では日暮里に居を構え、自宅でエッチング教室を開く。
ここで柳宗悦、児島喜久男、里見弴、武者小路実篤、志賀直哉が参加する。翌年、富本憲吉と交わり楽焼きを体験、楽焼き6代目乾山に入門し陶芸を学ぶ。
柳宗悦、濱田庄司らと交遊を深めていったが、1920年(大正9年)33歳のときに濱田庄司を伴い帰国。36歳の時にセント・アイヴスに製陶所を経営する。その後は1979年(昭和54年)92歳で死去するまで14回に渉って来日する。これほどまでに日本と関わりを持ったのは、幼少時に日本で生活し、若き日よりラフカディオ・ハーンの著書に親しみ、日本に憧れてその夢を実現し、日本民藝運動の指導者柳宗悦、陶芸家富本憲吉、濱田庄司等の多くの友人に囲まれて陶芸の道に進む事ができた幸運なる運命の中で仕事ができた由縁であろう。バーナード・リーチの作品は日本の陶芸家と比べると職人臭さがなく、ピカソの陶芸にも通ずるおおらかさが特徴ではないかと感じる。美術学校での修行やエッチングで鍛えられた表現力と細やかさも持ちながら細部にこだわらない骨太さが感じられて、見るものに緊張感を与えない素朴さと心地よさを感じさせるのではないだろうか。



自画像 1914年 エッチング
(日本民芸館蔵)
柳宗悦像 1918年
(日本民芸館蔵)

ゴシックの精神 1907年
(日本民芸館蔵)
楽焼駆兎文皿 1919年
(日本民芸館蔵)


緑釉飛鉋文字入水指 1954年
(日本民芸館蔵)

緑釉櫛描水注 1954年
(日本民芸館蔵)

色絵山水文角皿 1954年
(日本民芸館蔵)
黒釉彫絵壷
(日本民芸館蔵)
黒釉彫絵燕文壷
(日本民芸館蔵)

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