2015年5月27日水曜日

ルオーとフォーブの陶磁器展を見て

今日は久しぶりに斎藤施設部長にご挨拶の為、都心にでることになりました。
設計部会の世話人の吉田さん、上田さんにはご苦労さまでした。
部長挨拶までに時間がありましたので、新橋の「汐留ミュージアム」に立寄り、「ルオーとフォーブの陶磁器」展を
見てきました。欧米の陶磁器は日本の歴史ある陶芸である、柿右衛門や楽焼き等に影響を受けている事が多いのですが、
今日の陶磁器展では、20世紀のアートを築いてきた作家の個性によって作られた陶磁器として新鮮な感じを受けました。マティス、ドランン、ヴラマンク、ルオーと個性的な画風の絵描きがメティエ工房の素焼きの焼きものに絵付けをするというものでした。その為に、形体としての独自性はなく、絵付けの特徴が現れている事で西洋の絵画と芸術についての考え方が明瞭にうかびあがっていると思いました。
日本の伝統的な絵画では絵画空間の中での余白のもつ意味が重要視されてきましたが、西洋絵画では空間を絵画で埋め尽くす事が特徴です。その特徴が陶芸にも現れていることが大変興味をもちました。

これまで、スコラセミナーで20世紀のモダニズム建築を研究してきた観点から見ると。モダニズム建築とは絵付けされていない無装飾のアートであると感じます。素焼きの建築を作る事が建築家の役割だとすれば、その上に餌付けをする職人(画家、彫刻家、ステンドグラスデザイナー、モザイク職人等)に活動の場を与えるのが建築家の役割ではなかったのか。結果は建築家が空間を独占して彼ら職人に仕事をさせない世界が生まれたのが20世紀モダニズムであった事が実感されます。そして21世紀の建築家は益々空間をゆがめる事に狂奔して、独自性を出そうとします。職人は出番がなくなり、公募展での大作作りでその欲求不満を解消しています。建築家は本来それほど特殊な存在である必要はなく、素焼き作家として、多くの職人に生きる場を提供する仕事ではないかと思いながら帰りました。
そんな感想を持った展覧会でした。
<フォーブの陶磁器展1.jpeg>
2015.5.26
野崎英彦





<フォーブの陶磁器展2.jpeg><フォーブの陶磁器展3.jpeg>

<フォーブの陶磁器展4.jpeg><フォーブの陶磁器展5.jpeg><フォーブの陶磁器展6.jpeg><フォーブの陶磁器展7.jpeg>

2012年9月25日火曜日

バーナード・リーチ展(横浜高島屋)

横浜高島屋にて「バーナード・リーチ展」が開催された。1934年に同じ高島屋にて「バーナード・リーチ展」が開かれてより70年ぶりの展覧会であった。今後自分が生きている間には開催されないであろうとの思いで、9月24日(土)に雨の中を足を運んだ。雨天にも関わらず多くの人が見に来ていた。
バーナード・リーチは1887年(明治20年)に英国でうまれたが、誕生とともに母と死別し、日本に居住していた母方の祖父母にひきとられ、京都、彦根で育った。その後、父の仕事で香港、シンガポールで過ごし、10歳のときに本国にもどった。
16歳で美術学校に入学したが、父の病気、死去により1年で退学。20歳でロンドン美術学校に入学し、エッチングを学ぶ。ここで高村光太郎を知る。22歳の時に高村光太郎に伴って日本へ渡航する。日本では日暮里に居を構え、自宅でエッチング教室を開く。
ここで柳宗悦、児島喜久男、里見弴、武者小路実篤、志賀直哉が参加する。翌年、富本憲吉と交わり楽焼きを体験、楽焼き6代目乾山に入門し陶芸を学ぶ。
柳宗悦、濱田庄司らと交遊を深めていったが、1920年(大正9年)33歳のときに濱田庄司を伴い帰国。36歳の時にセント・アイヴスに製陶所を経営する。その後は1979年(昭和54年)92歳で死去するまで14回に渉って来日する。これほどまでに日本と関わりを持ったのは、幼少時に日本で生活し、若き日よりラフカディオ・ハーンの著書に親しみ、日本に憧れてその夢を実現し、日本民藝運動の指導者柳宗悦、陶芸家富本憲吉、濱田庄司等の多くの友人に囲まれて陶芸の道に進む事ができた幸運なる運命の中で仕事ができた由縁であろう。バーナード・リーチの作品は日本の陶芸家と比べると職人臭さがなく、ピカソの陶芸にも通ずるおおらかさが特徴ではないかと感じる。美術学校での修行やエッチングで鍛えられた表現力と細やかさも持ちながら細部にこだわらない骨太さが感じられて、見るものに緊張感を与えない素朴さと心地よさを感じさせるのではないだろうか。



自画像 1914年 エッチング
(日本民芸館蔵)
柳宗悦像 1918年
(日本民芸館蔵)

ゴシックの精神 1907年
(日本民芸館蔵)
楽焼駆兎文皿 1919年
(日本民芸館蔵)


緑釉飛鉋文字入水指 1954年
(日本民芸館蔵)

緑釉櫛描水注 1954年
(日本民芸館蔵)

色絵山水文角皿 1954年
(日本民芸館蔵)
黒釉彫絵壷
(日本民芸館蔵)
黒釉彫絵燕文壷
(日本民芸館蔵)

2012年9月13日木曜日

名古屋ボストン美術館を見て。

名古屋ボストン美術館(日本美術の至宝)を見て。

平成24年9月9日(日)の朝から「名古屋ボストン美術館」に行くと既に10時開館前
に多くの行列ができていた。東京上野での長期の展示を見逃してしまった為に、名古屋での「郵政建築OB会」に前日参加したついでにこの機会を得る事ができた。
TVで既に紹介されていた「ボストン美術館」が多くの日本の美術を所有していることには
興味をもっていたが、今回やっとその真実が解明された。明治維新のときの政府の神仏分離令が廃仏毀釈運動となって、日本中の多くの仏教美術が破壊されていた時にフェノロサ、ビゴー、岡倉天心がそれらを安価に大量に買い取った事から「ボストン美術館」には10万点の日本美術が保有されることになったことを知った。
彼らが集中的に買い漁ったことにより多くの日本美術が市場に分散されずに済み、行き届いた管理のもとで保存、修復、展示が行われてきた功績は大きい。しかし、戦後の日本人は長い間その事実に関心をもたず、作品の価値を知る機会も無く今日に至った。

世界に植民地を持ち、海外遠征をしてきたヨーロッパ先進国が世界中から文化遺産を自国に持ち帰った事は「英国大英博物館」が所有する世界中の文化遺産が物語っている。
今回その事とは別に、明治維新後の新政府が実施した「神仏分離令」により数年にわたる仏教弾圧と仏教文化の破壊が日本中を駆け巡ったことにたいする驚きである。この事件が無ければボストン美術館が10万点もの日本美術を獲得する事はできなかったに違いない。この中には仏教弾圧による以外に武士階級が没落したことにより手放された日本美術品が多く含まれている。明治維新が革命であったのか、緩やかな体制変革であったのかについての判断が色々あるにしても、政治体制が変わる事によって文化遺産が破壊される歴史を改めて認識することになった。第二次大戦後の日本の貴族制の廃止、皇族の縮小、財閥の解体による富裕階級の没落等により彼らの所有する財産が市場に流れ、これらを占領軍とともに上陸してきた文化財買収の目的をもった人々が多くの日本の文化遺産を持ち帰ったであろう。イラク戦争、アフガン戦争でも国立博物館が爆撃されて収蔵品が消滅したり、略奪されたものが多いと聞く。最も衝撃的な事件はアフガニスタンの壮大な石仏がゲリラによって爆破されてしまった事である。人間の歴史上では世界中で富の略奪、文化の破壊が繰り返されてきた。このボストン美術館を見ながらこんな事が頭から離れなかった。今の日本郵政が近代建築の守護者から破壊者になろうとしている原動力とはなんだろうか。不動産という土地が生み出すであろうと予想される莫大な富への幻想なのか。確かに日本の主要駅前の特等地を保有する日本郵政にとって国有財産という規制が外された事によっていかなる経営資源も自由に処分する事が可能になった。本来の郵政事業の赤字を不動産事業の利益に転嫁して経営危機を乗り越えようとしているのか。これも廃仏毀釈令が仏教美術を破壊して新たな国家神道に乗り換えができると狂気したことと通じるものを感じる。過去の遺産をすべて滅却しなければ新たな価値を生み出せないのか。
このような事が全国で実行されることにより、後世において平成の「文化破壊運動」と
評価されることを憂う。




名古屋ボストン美術館(金山駅前)
















東海地区郵政建築OB会に参加して。

東海地区郵政建築OB会に参加して。

平成24年(2012年)9月8日(土)に名古屋千種にある「名古屋メルパルク」にて東海地区のOB会に6〜7年ぶりに参加した。昭和59年〜60年に東海郵政局建築部長として勤務して以来26年の歳月が過ぎたが、平成4年には退官したのでそのときからは20年
が過ぎ、時の過ぎるのは早い。ひさしぶりに再会した方も多いがお会いできなかったかたも多い。この20年の間に郵政省は郵政事業庁から郵政公社となり、2007年には民営化され、日本郵政株式会社と分社化により4社体制となった。2010年には旧建築部は
不動産部門施設部として発足した。かつての地方郵政局建築部10カ所は「施設センター
7カ所」となった。東海郵政局建築部は現在では「中部施設センター」である。
民営化以降の施設部の変化は大きく、特に東京中央局、大阪中央局の再開発決定については戦前の逓信省が残した近代建築の輝かしい成果として、これを文化財に匹敵する建築文化遺産として残す事を多くの歴史学者、地元の有識者からの保存陳情が起こった。東京中央局にあっては国会での議論となり、鳩山邦夫総務大臣の提案がうけいれられて、保存範囲の拡大という成果を得た。大阪中央局も大型の再開発計画が浮上したが、その後の事業の実現性の検証により中断となった。ここで大阪中央局の保存問題に猶予期間が生まれたと安心した関係者もいたかもしれないが、その猶予も待たずに解体工事が発注された。
新たな計画も発表されていないにも関わらずなぜ解体を急いだのであろうか。明らかに保存運動が盛り上がらない内に話題の種を抹殺してしまうという経営判断であろう。
企業の社会的責任という事が話題になっている現在、その責任の中に歴史的文化的遺産存続への企業努力が要求されるのは当然である。企業は直接の企業目的意外には眼中にないと言う程この社会の文化的側面に無関係でビジネスを行っているのだろうか。企業の側からの目覚めが必要な時代であろう。しかし、私見によればこの問題を企業の自主的判断だけに追わせるのは無理な事と思う。文化財保護法が近代建築保存に対して無関心なるが上の法制上の不備による結果が招いている現象であると考える。新たな法制化なくして今後の歴史的建築遺産の保存はありえないと考える。
郵政OB会の閉会後に飛田センター長とかつて設計課長経験のある観音さんと「名古屋中央局」の見学にいった。既に窓口以外は使用されていない局舎であり、近々新たな開発計画のもとに再開発されると聞いている。戦後60年の節目に民営化された以降、郵政事業の歴史的シンボルであった「東京中央郵便局、大阪中央郵便局、名古屋中央郵便局等」の大型の近代建築が取り壊され、姿を変えていく事には大きな喪失感を抱いてしまう。百年に満たない建築がスクラップされていく日本の建築の有り様には建築文化に対する誇りや自身が持てない国民性の現れであろうか。いつも直近の新しさには目を奪われるが歴史的時間を経て生き残っているものへの愛惜観を持てないのはなぜだろうか。そのような国民が
ヨーロッパの古い建築や街並みを高い旅費を払って見に行くのはなぜだろうか。逆に世界の他国の人たちが日本に観光旅行する動機はなだろうか。日本固有の文化を保持している
京都、奈良、飛騨高山、日光、東北の山村、自然の豊かさそして浅草、千駄木に代表される大都市における過去と現在の渾然とした都市文化現象ではなかろうか。
日本人は飛鳥、奈良、平安、鎌倉、江戸の各時代が残したものへの誇りと同じく、もっと明治以降の近代遺産に対しても自身と誇りを持ってほしいと思う。
近年の地球温暖化への警告、地球資源の再利用、自然エネルギーの再生利用が叫ばれている今日では膨大な資源とエネルギーと労力によって生まれ、未だ十分に活用期間が残されている建築物をスクラップにしてしまうことへの反省が無ければならないと思う。
日本人が長い歴史の中で培ってきた、自然への畏敬、資源への感謝、労働成果への尊敬
こそが「もったいない精神」の底に流れている姿であり、世界の人たちから目標とされる心構えであろうと思う。

「名古屋中央郵便局の現状と名古屋駅前周辺」











2012年9月7日金曜日

大阪中央郵便局解体直前の姿の報告。

黒川 暢一郎 様

6月7日に十数年振りに大阪での「たくみ会」に参加しました。
私の勤務した昭和50年から52年の間にともに仕事をした懐かしい人たちにお会いしました。しかしこれまでの30数年の間に設計課にいた人が3人(熨斗君、山田君、向井君)も亡くなりました。共に働いた仲間たちとの思い出だけは忘れることはできません。
この度は大阪中央局の最後となるかもしれない姿を眼に刻んでおきたいとの願いもあってOB会に参加しました。
寺崎部長時代の管財課長であった上田文男様とお話したところ、中央局に大変な思い入れがあり中央局の写真を数多く撮影した思いでもあり、局舎解体を目前にしてこれまでの写真を使ってDVDを編集・制作したとのことでした。
数日後にそのDVDを送って頂き、上田さんの中央局への熱い思いに感激しました。
上田さんのみならず多くの郵政人、市民も愛惜の念を抱いていることと思います。
翌日の8日には東京でお会いした「大坂中央郵便局を守る会」の長山会長にお会いしようと電話したところ保存運動に関して弁護士との打ち合わせがあり面会できませんでした。後からの電話では工事差止訴訟等の可能性について検討したとのことでした。長山さんは大変潔癖な方で、政治家への依頼はしたくないとの見解でした。
午前中は観音さんと大阪駅前の変化を20年ぶりに実感しました。駅前広場にはJRの駅ビルが突出して建てられ、駅前広場が狭くなっていました。阪急百貨店は旧外装デザインを復元しながら背後に高層ビルの建設工事がほぼ完成間近でした。
建築が都市の記憶装置としての意味を持つと考える私としてはこのような再開発の方法も可能だと思いました。
中央局は外周に仮囲いの工事中のため、在りし日の全容を偲ぶことはできませんでしたが、周囲を見て回って改めてその大きさ、デザインの緻密さに感激しました。東京中央局と比べて外壁が暗いのが難点ですが、かえって威厳のある姿になっていると感じました。これを再開発するならば私ならばどうするかと以前から考えていました。既に郵便局としての機能はなくなっているのでこのデザイン・空間を生かしながらいかなる用途を盛り込むかによって全体像が決まります。このような課題に挑戦することは建築家として最も力量を問われると共に、やりがいのある仕事です。今の日本郵政の施設部は自らの力でこの課題に挑戦するべきでしょう。
一番安易な道を選んでいてはかえって彼らの存在感が薄れるばかりです。
このような安易な解体新築の手法だけしか思いつかない貧困な建築集団にしてしまったことに郵政建築人として責任を感じます。
これからも多くの近代建築の遺産を保有している日本郵政建築はもっと過去・現在・未来を包含した広い視野の集団として活躍してほしいと願っています。OBとしての役割も忘れてはならないと思っています。
「スコラ建築倶楽部」でも現代都市における建築のあり方について研究し、議論していきたいと考えています。
多くの現役、OBの皆様の参加を期待しています。
大坂駅前広場周辺の写真を貼付しますのでご覧ください。

2012.6.21


野崎英彦




解体用仮囲工事
広場側外観
大阪駅前から中央局展望
阪急再開発完成直前
完成後の全体イメージ









2012年9月3日月曜日

大阪中央郵便局の解体完了の残念無念について。

大阪中央郵便局はついに解体された。
何のためにこのような無謀な行為が許されたのか。
日本文化の歴史の中でも最も非道な事件として語り継がれるであろう。
人の誕生は親族の喜びであり、これを祝す。
人の死はかけがえの無い人との永久の別れとして、これを深く悲しみ弔う。
建築の誕生も多くの関係者はこれを喜び、これを祝す。
建築の死もまた多くの人はこれを悲しみ、愛惜の情に苦しむ。
大阪中央郵便局は多くの市民、学者、技術者に惜しまれながら、
公衆の面前で悶え苦しみながら死に追いやられてしまった。
そんな姿を日々見ながらも如何ともし難いこの悲しみ苦しみに耐え、
弔うこともなくこの昭和の名建築は逝ってしまった。
(「大阪中央郵便局を守る会」のHPより写真を転載させて頂きました。
心ある方はぜひHPをご覧になってください。)
大阪中央郵便局外観


2012.8.2撮影

2012.8.8撮影

2012.8.14撮影

2012.8.21撮影

2012.8.24撮影

2012.8.31撮影